『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー/2010)

地元シネコンで早速の再見。例の爆音仕様のクラブのシーン(Tattakaさんが本作で描かれた青春を”終わらないレイヴ・パーティー”と比喩していたのは本当にハッとさせられた)で、マーク・ザッカーバークはショーン・パーカーに高校時代に好きだった女の子のことを今でも思い出せるか?と問う(ショーンがナップスターを立ち上げ成功した影には彼女にフラれたことが奮起の一因となっている)。ショーンは躊躇わず一言、ノー、と答える。このときのマークの顔(リアクション)をしっかりカメラが捉えていることにグッときた。だからこそラストのマークへの切返しも活きてくるわけだ。また、ショーンがこのときだけマークと目を合わさないことにも注視したい。ここには直後にお互いの目を見ることを強制して「フェイスブックはお前の命だろ?」と問いかけるショーンの別の顔があるのかもしれない。ショーンが本当に彼女のことを忘れたのかどうか、その本心は本人にしか分からないのだ。”リアクション映画”としての『ソーシャル・ネットワーク』の繊細な設計に唸らされる。


全体としては1度目とそう変わらない印象なのだけど、大きく認識を誤っていたところがあって、『ソーシャル・ネットワーク』の膨大な台詞の一つ一つには、実のところどうでもいい言葉なんて一つもないことに気づいてしまった。恐るべきことにほとんどの台詞が伏線に繋がっている。そして早口の台詞のスピードに合わせるように、とにかく次の展開への繋ぎが早い。アドレナリンが出まくっている人たち(又は興奮するのを必死で抑えている人たち)が語りまくるだけで映画はこんなにも面白くなるのか、と。同時にアドレナリンが出まくってる話者に対面する聞き手を丁寧に挿入していく繊細さ。そこに挿入されるパーティーシーンのバカ騒ぎのようなスピード。眩暈を起こすほどのスピード。だから『ソーシャル・ネットワーク』は短い。再見したところで120分はあっという間のスピードだった。


彼らはまだ子どもだ。正しい理由で正しいことを始め、間違った理由で正しいことをやめてしまうだろう。デヴィッド・フィンチャー


以下、Tattakaさんの『ソーシャル・ネットワーク』評。
http://love.ap.teacup.com/applet/tattaka/20110118/archive