『エッセンシャル・キリング』(イエジー・スコリモフスキ/2010)


東京国際映画祭で体験することが叶ったスコリモフスキ新作の余韻が未だ消えない。戦闘機(ヘリ)のプロペラが回る更に上空から撮られた空撮ショットと地上からの切返しで始まる冒頭から驚愕のラストまで、文字通り席から身を乗り出して体験してしまった。本作は『バリエラ』の冒頭で繰り返し描かれた、人が後ろに手を縛られたまま落下する(受け身をとる)訓練、あのアクションの命懸けの実践編(戦闘編)だ。ワンショットで雪の崖を滑り落ちるヴィンセント・ギャロタリバン兵の予告編を見たときから空恐ろしさを感じていたものの、ここまで雪原のアクションが詩情や主題(受難の受難)と濃密に絡み合うとは。上映中、思わず「すげッ!」と声が漏れてしまったじゃないか。薄れゆく視界の中でギャロが見た女性のアップが持つ繊細さに涙した。



ヴィンセント・ギャロタリバン兵という設定であり、ヴィジュアル的にはキリストに見えなくもない、というこの一見ミスティフィカシオン性に溢れた映画の狙いは、宗教の和解とその難儀という意味では明瞭に思える。洞窟に隠れたタリバン兵という時点でイスラム教の開祖ムハンマドを想起させるギャロが、終わりなき雪原を舞台に延々と犬に追われ、食に飢え、ついに母乳を喰らうシーンのユーモアに笑いつつ、その詩情に震撼が走るのは、それが静止画であるかのような、歴史、私たちの住む世界の写し絵=幻影(映画の絵画的瞬間と言ってもいいかもしれない)と接続されるからだろう。


命懸けのアクションの果てに辿り着いた家の前で、ギャロは「きよしこの夜」がオルガンで演奏されるのを窓越し、壁越しに聞く。何か得体の知れない強い力に引き寄せられるかのように、この家をノックする(頭突きする)ギャロは、ここで暫定的な休戦を迎える。そしてこの休戦(和解)こそが、受難の終わりが受難の始まりであることを告げ、絶句するほかない衝撃のラストへ向かう。


ここからは私の妄想かもしれないと断った上で書いておく。ギャロが冒頭から悩まされてきた幻聴が、後半になるに従っていつの間にか聞こえなくなることは重要に思える。おそらくギャロが自らの耳で最後に聞いたのは、あの女性が演奏する「きよしこの夜」だろう。そしてギャロはこの映画で一言も台詞を発しない(!。ただし自ら封じているのかもしれない)。「休戦」の間に衝撃的なのは、ギャロの視界さえもが薄れていることを知るときだ。だからこそ主観ショットで捉えられたあの女性のアップに涙する。そしてこの女性もまた口が利けないのだ。言葉、視聴覚を失った「映画」の主人公が、最後にああなってしまうのは、主題の必然でありつつ、映画の必然のような気がしてならない。


スコリモフスキは未だにバリエラ=障壁を闘争的に詩情豊かにユーモアを忘れずに描いている。前作『アンナと過ごした4日間』には二人を遮る絶望の壁が出現したが、現代の「障壁」はどんどん曖昧に見えにくくなっているようだ。『エッセンシャル・キリング』は可視化できないその絶望的なバリエラ=障壁に命懸けのアクションで向かう者を描き、受難の受難を撃つ。胸を撃ち砕くような傑作の誕生だ。


追記*未確認情報ながら『エッセンシャル・キリング』は来年公開へ向けて動き始めたようです。当然でしょ!『エッセンシャル・キリング』が、父コッポラの『テトロ』、ギャロの監督最新作『Promises Written in Water』と同時期に公開してくれたら嬉しい。ギャロまとめ3本で。


追記2*スコリモといいコッポラといい、ここにきていい感じのペースで映画を撮っていることが、なにより嬉しい。映画は亡命する。


追記3*ものすごい大事なことを書き忘れたけど、この映画のタイトルが「エッセンシャル・キリング」、直訳で「本質的な殺害」ということはものすごく大事です。


追記4*あの女性のアップにスコリモ流儀の(厳しい)メロドラマがふわっと浮き上がるのを感じた。そういうものとはまったく無縁な展開だっただけに尚更感動。