『ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニック/2010)


東京国際映画祭ワールドシネマ部門にて。アメリカの片田舎を過酷に生きる少女の物語である本作は、舞台である雪のロケ地に比例するような人と人との間に生まれる冷たい視線の対立を執拗に繰り返すことの暴力連鎖だ。その絶対的に親密になることを禁じた距離が、いつ殺されてもオカシクナイような殺気に満ちた空気を生んでいる。決定的なショットで作家性を表明するのではなく、単純な視線の交錯によって映画が紡がれる前半。物語は『ウェンディ&ルーシー』(ケリー・ライヒャルト)のようなこれまた簡潔さが貫かれている。「父」を探している。それだけを理由に少女は近所の家々を回っては、凍てつくような人の視線に曝される。『ウェンディ&ルーシー』のミニマリズムと決定的に違うのは視線の複雑さだ。各家庭の「夫」なるものの権力の視線と、「夫」(一様にヤク中)に支配された「女」の視線が、少女の視線と複雑に交錯するが、ここの演出の手捌きが簡潔なことが、この監督の手腕を証明しているといえるだろう。


前半に執拗に繰り返されるこの凍てついた視線の対立は、ある事件によってさらに強度を増す。町(村)=森全体に見えない暴力の圧力が渦巻いてしまうのが後半だ。統合失調のような所在を失くした何処にも行けないカントリー・ブルースが村全体を覆う。アメリカの記憶。アメリカの陰。少女が一家の思い出のアルバムをめくるとき、その歴史絵巻にカントリー・ブルースが重ねられることで、隠されていた記憶は暴かれ、不穏なノスタルジーが誘発される。見事な手捌きで少女の運命が翻弄される苛烈なラスト数十分についてはここでは触れまい。ただ幼い妹がノーコードで弾く無調のバンジョーに感じた、苛烈な希望と寂しさに激しく胸を打たれたことは明記しておく。かなりの発見!


ウィンターズ・ボーン』は本日10/29(金)、最終上映があります。
http://www.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=169


追記*少女が年齢を告白するときのタイミングに唸った!


追記2*今回の東京国際、即日更新できなくて残念。朝8時頃出て帰り午前1時過ぎとか連日だと記事書くの厳しいですね。今回は前売券11枚+当日券2枚買いました。スコリモ、ゲリン、など後手後手ですが追って備忘録として書かなきゃ。