『アンチクライスト』(ラース・フォン・トリアー/2009)


輸入DVDでラース・フォン・トリアーの新作。昨年のカンヌで大ブーイング&ドン引きだったらしい本作。『アンチクライスト』は過去作品にも見られるようなトリアーのイニシエーションに対するオブセッションがより前景化している。『アンチクライスト』におけるトリアーを所詮ヨーロッパ圏内の作家、もっと広くキリスト教圏内の作家に過ぎない、と批判する向きもあるかもしれない。とはいえアメリカ3部作における「アメリカ=世界の縮図」から再度以前の圏内に立ち戻った本作を閉じているとは全く思わない。やはり原罪と救済を描いていながらも、世界へのシニカルな視線ではなく、どこか『イディオッツ』の頃のようなファニーな感覚が戻ってきていると感じるからだろうか。この作品には喪失の裏返しから生まれるような、ある種の捻れた全能感を感じる。画面の審美性の強いプロローグとエピローグを彩るヘンデルの「涙の流れるままに」の歌詞のように、このレクイエムはトリアー特有の嘲笑を武装解除している。全裸のトリアー。つまりトリアーは泣いている。



ラース・フォン・トリアーという映画作家は、自身が敬愛するカール・テオ・ドライヤーとエリッヒ・フォン・シュトロハイムの間で引き裂かれているように映る。『アンチクライスト』にはシャルロット・ゲンズブールウィレム・デフォー夫妻、小さな息子の3人以外、画面には登場しない。正確には登場するのだけど、無数の人の顔を匿名にするボカシがかけられている。こういった最小限の設定に、野獣の如く肉欲的な展開を盛り込むその姿勢には、最小限の舞台設定で最大限の効果を狙うドライヤーの崇高な魂を受け継ぐ意思と、シュトロハイム的な強欲、大喰い、乱痴気騒ぎへの押さえきれない背徳が同居しているように思える。これがトリアー自身の信仰への愛憎と切っても切り離せない関係にあるのは言うまでもない。なにせ本作のタイトルは『アンチクライスト』なのだ。



息子の事故死(夫婦にとって「原罪」となる)から不安定な精神状態に陥ってしまったシャルロットを治癒するためセラピストであるデフォーは共に「エデン」へ向かう。絶えずドングリの降りしきる「楽園」で待っていたのは治癒ではなくシャルロットの細胞レベルにおける歴史の記憶の復権である。ここで「魔女」というモチーフが支配を始める。イヴがアダムから生まれたようにデフォーが幻視する鹿には今にも生まれようとするコドモが半身、粘膜に包まれたまま飛び出している。シャルロットの精神を蝕む支配の頂点をデフォーが導き出したとき惨劇は起こる。この惨劇はイニシエーションに似ている。


濃霧の森の中、絶叫しながらデフォーを追い詰めるシャルロットの細すぎる身体が強烈な印象を与える。下半身裸で走り回る魔女=シャルロットが、デフォーの動きを磔刑の如く封じる。エデンの森の中、夫婦は延々と血の抗争を繰り広げる。シャルロットの暴力がシンメトリーに閉じる(完全にネタバレなので書かない。画面を直視するのに本当に勇気が要ります。凄まじい。)とき、イニシエーションを経た物語のエピローグに、ヘンデルの「涙の流れるままに」が再び鳴り響く。この反復には確実にズレの響きが生じている。喪失の悲しみだけでなく未来への祈りと恐怖が入り混じったレクイエム。血の惨劇のイニシエーションを経てひたすら生まれる映画自身の霊的な上昇。暗黒時代の始まりか、楽園の開放か。このエピローグは引き裂かれている。私たちはただ一人生き残った者のようにこの光景を呆然と眺めることしかできない。故に美しい。


追記*DVDの特典満載なのだけど、カメラテストの風景やVFX技術やメイキングが興味深かったです。明らかなVFXと手の込んだVFXを意図的に混ぜている独特な構成がオモシロイ。にしてもシャルロット。後半はジャック・ドワイヨン『ラ・ピラート』の母ジェーン・バーキン譲りのような狂気がずっと続く命削った演技。アルバムも大好きだよ。LPサイズにコピーして部屋に飾っちゃってます!
追記2*イニシエーションって具体的に書くとネタバレになるのでご勘弁を。

Irm

Irm