『(500)日のサマー』(マーク・ウェブ/2009)


既にいろんな方が思い入れたっぷりに書いているので(どれも面白かったです)今回は記事にするのいいかな?(Twitterでちょっと呟いちゃったし)と思っていたのだけど、別の視点で書けることも少しばかりあるかな?と思い直したので書いておきます。所謂「デシャネル萌え」のない自分でも(いや気取ってるわけじゃなくて、あー、まぁ分かるかなという認識。悪意は微塵もないです)、セックスしたからって付き合ってるとは限らない、というこの小悪魔ぶり、この距離感、魅力はよく分かる。一点だけ。デシャネルがジョセフ・ゴードン=レヴィットに添えた手に何故これほど感動したかについて書いておきたい。



この作品を”恋人同士がカットの終わりを告げたりカットの終わりを待つ映画”だと思ったのは、劇中に挿入される『卒業』(マイク・ニコルズ)のラストショットという伏線が効いてるからで、『卒業』という映画では、かの有名な馬鹿馬鹿しいほどの狂騒のあとで恋人たちは歓喜の笑いをあげ、やがて大爆笑の後の沈黙、虚無=祭りのあとを迎える。この恋人たちの虚無は、現場でマイク・ニコルズが主演の2人にカットをかけなかったことによるものだ、と何処かで聴いたような、そうゆう認識があるのだけど、デシャネルの添えた手はまさしくこの「カット」の声だなと感じたわけ。2人がベンチに座り恋の狂騒のあとの後日談的虚無が立ち込めるこのシーン、デシャネルの添えた手は恋の終わりを告げるカットの声であり、次の季節へ向かうための残酷なカットの声でもあった。其処に込められた思いが決して冷淡さの一点に絞られないことが、この物語を豊かにする。新たな出発にはいつでも幸福な日々へのノスタルジーと新たな選択への本当にこれでよかったのか?という迷いが生じる。デシャネルの添えた手の平から零れ落ちるもの。その手を放したときの諦念。そこに涙した。『卒業』のラストショットのどこに目の焦点を合わせていいのか困ってるような恋人たちの続きが、残酷な、しかし大らかな希望を持って描かれている。といったら早急だろうか。この続きは500日目の出会いに託される。


ベルセバの『The Boy〜』の歌詞の話から始まるこの作品の音楽的な背景はmikkさんの記事に詳しい。そちらを御覧ください。たしかにベルセバ、スミスが好きな人がブルース・スプリングスティーンってちょっと違和感が。そうくるならリンゴ派ではなくジョージ派じゃないかなとも思う(何度も言うけど『(500)日のサマー』への批判じゃないですよ)。
http://d.hatena.ne.jp/mikk/20100112