『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』・『分離の批判』(ギー・ドゥボール/1959・1961)

エド・ヴァン・デル・エルスケンの『セーヌ左岸の恋』(余談ですがフィリップ・ガレルの映画って『セーヌ左岸の恋』の登場人物が動いてるみたいですよね)の舞台となったサンジェルマン・デ・プレ裏通り(サルトルはじめ実存主義者は表通りだそうです)界隈をカメラに収めたこの作品でも、あらゆるロケーションの意味作用の置換が行なわれているようだ。ドゥボールの仕事が何に近いかというとトリスタン・ツァラの『ダダ宣言』の感触というか、木下氏の用意した資料で、雑誌の切り抜きや新聞の一文など全く無関係のモノが、新たな関係を結ぶことで生を得る図が示されていて、合点、ダダ運動の正統な発展としてのシチュアシオニスム(これって当然ですよね。スミマセン。シチュアシオニスムの知識に乏しいもので。さすがにパンクとの繋がりは知ってるけど)。しかしここでも私の心を捉えたのは瑞々しいストリートの映像と其処に乗せられた言葉で、「疲労したような朝」という言葉にグッときた。「今日の芸術作品は作品の不在によって成立する」という言葉は、其処に映っているモノの意味を剥奪するかのような響きがある。「分離の批判」ということか。


木下誠氏の講演はギー・ドゥボールとシチュアシオニスムに関する初心者向け(とても分かりやすくて親切な内容だった!)ガイドラインなのかもしれないけど、とても興奮させられるものだった。個人的にはイジルド・イズー『涎・永遠概論』〜ギー・ドゥボールを体系的に教わったのは(本でカジったくらいなので)嬉しい体験でした。『涎・永遠概論』はたしかエリック・ロメールとの関連がありますよね。


ギー・ドゥボール、その芸術とその時代』(ブリジット・コルナン)はこれを踏まえたうえで見たかった。ところで明日上映の『われわれは夜に彷徨い歩こう〜』はきっと例外的に叙情的な作品なのだろうね。今日は非常に刺激的な体験でした。


追記*どなたか18日のレポをアップしてくれないかと思っていたらTattakaさんが非常に興味深い記事をお書きになっていたので以下に貼っておきます。
http://love.ap.teacup.com/tattaka/131.html

セーヌ左岸の恋

セーヌ左岸の恋