『サドのための絶叫』(ギー・ドゥボール/1952)

まずドゥボールの残した「作品」が特集として組まれてしまうということ自体、もっと言えばドゥボールの行なった仕事を「作品」と呼ぶこと自体が、ドゥボールの批判する「スペクタクル」になってしまう、という矛盾が生じてしまうわけだけど、ドゥボールの「作品」が非難と無視を受けた革命前夜ならともかく、現代の視点からはどうしたってギー・ドゥボールという特別な固有名詞をスペクタクル化させることを、まず受け入れなければ何も始まらない。受け継ぐべきはその批判精神、アティテュードということになろうか。


『サドのための絶叫』というとてつもなく魅惑的なタイトルを持つこの作品の極端な構造を書いてしまうことには、やや抵抗がある(ネット上に落ちてる文献に当たればすぐ分かる話ですが)。出来れば何も知らない状態でこの作品に接して欲しいと思うから。レトリズム(言葉以前の言葉→解読は不可能)の詩の朗読から始まるこの作品は、ジョン・ケージが「4'33"」で試みたことを想起させるわけだけど、上映後の講演で木下誠氏は、ドゥボールとケージの仕事の最大の違いは「日常」にまでその作用が及ぶかどうかという点に尽きる、と述べられていた。なるほどここにはもっと日常に根ざした意味作用の置換があるように思われる。映画館=胎内=夢というベーシックなアナロジーすら異化させてしまう働き。ただ個人的には、こういう感じ方は「スペクタクル化」に他ならないことを承知で書くと、白画面で現代詩の如く奔放に放たれる言葉の中に、思わずハッとする言葉が紛れていて、たとえば「この惑星のことは忘れないだろう」という言葉が放たれた後の黒味、それはどこか名前のない宇宙を彷徨っているような錯覚に襲われるような体験だった。火星を懐かしむような叙情を否定できない。