『四川のうた』(ジャ・ジャンクー/2008)


ユーロスペースにてジャ・ジャンクー最新作。『工場の出口』(リュミエール)を意識した美しいショットから始まるこの作品(2000年におけるジャンクーの準備稿には『工場の大門』と名付けられている)は、「歴史」が語り手によって再編されていく、その再編そのものの過程を記録した興味深い作品に仕上がっている。インタビュー形式で、実際に工場に関わったまったくの素人が語る「歴史」と、プロの俳優による”演じられた”語り=再編が、言われなければ分からないほど何の違和感もなく並列されている。記念写真のようにまるで静止画のように撮られたカットからインする、その対象の全員が優れて映画な顔としかいいようのない孤独な影を纏っている。劇中最初にエピソードを語る男性が昔工場でお世話になった、しかし今は遠くなった耳と言語障害を抱える上司と再会を果たす場面、取り返しの効かない時間が残酷にその顔に影を落とす。情け容赦なく対象=顔に射しこむ光と影。その中にあって、ジョアン・チェン演じる女性(かつての工場員たちのマドンナ)が一際瞳に焼き付く。彼女が語るのはかつて高嶺の花だった女が求婚されるエピソード。これが泣ける。


「今の私は”アイドル”じゃない。でも廃棄物でもないわ。」



ひたすら孤独な影を落とす顔が続くこの作品にあって、ローラースケートを繰り出す少女を捉えたショットの持つ光の射す運動、その開放感が胸を突く。やがて工場は崩壊する。崩壊する工場の塵で画面が真っ白になる中、チャオ・タオ(ジャンクー映画の常連女優)がオーバーラップで浮き上がるように出現する。爆撃による瓦礫の山でもエレガントに立つ女優といった佇まい。前述のローラースケートの少女とチャオ・タオだけに一際強い光が射しているのは、彼女たちこそが未来の語り部=歴史の再編を託す特別な存在、に他ならないからだ。


主題的にも形式的にも溝口の新たな継承者と言いたくなる絵巻物のように美しいあの『長江哀歌』(個人的に殿堂入りしてる作品です)から、ジャ・ジャンクーが本作で踏み出した新たな一歩(形式)に正直若干の戸惑いも覚えた。確認のために来週もう一度見てみようかな思います。しかしジャンクーはまだ30代なのだねー。スゴイや。