ジャック・リヴェットの秘密

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ジャック・リヴェットのインタビューを読んでいて、興味深かったところを少しだけ抜粋。ラース・フォン・トリアーに秘密がないかどうかはともかく(少なからず彼に秘密はあるのではないかと思っています)、全てが説明書に書いてある映画は面白くないという言葉に共感します。正しいのかもしれないけど、まったく面白味を感じない評判のいい作品ってありますよね。最近感じているものは、それかーと合点。

 

「映画監督が自伝を作らなければならないというわけではありません。それは、ジャン・ユスターシュと一緒にルノワールのテレビシリーズを編集していた三か月間に行った大きな議論でした。私たちは、自分たちが作った素材を何度も見たり、ルノワールの映画をもう一度見たりしながら、常に議論していました(私たちは、30年代の彼の映画のほとんどを編集台の上で見ていました)。ジャン・ユスターシュは「映画は個人的なものでなければならない、自分自身について語らなければならない」と言っていましたが、私は「いや、自分自身について語るべきではない、フィクションを構築し、物語を発明しようとするべきだ」と言いました。」

 

「最終的に、ジャン・ユスターシュは自伝的な映画を作り、それが自分自身を語っているにも関わらずフィクションとなり、私もフィクションを作ろうとしましたが、自分が経験したことを紹介してしまったことが二回か三回ありました。もちろん、『狂気の愛』では気づいていましたが、他の作品では、ずっと後になって、自分にとって秘密だったことを話してしまったことに気がつきました。」

 

「手のひらで目を隠して、少しだけ指を広げて見ている子供のように、(秘密を)半分だけ意識する必要があるのです。」

 

ラース・フォン・トリアーは何でもすぐにわかってしまう。秘密なんてない、秘密なんてないんだ、かわいそうに。全てが説明書に書いてある。だから、彼の映画は観客にも批評家にも受けがいいんだ。すべてがマニュアルに書かれていて、新しいことは何もない。19世紀のアカデミックな演劇の古い法則なんだ。」

CINEMORE映画評

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Ghost World

SNSは強引に引き合わせてしまった」という言葉について、しばらく考えている。SNSくらい好きなこと言わせてくれよという意見は正しいけど、自分はそういう風に付き合いたくない。あまりにも手軽すぎる。あまりにも暴力的すぎる。そんな風に感じるときは、そっと距離をとる。SNSを感情の便利なツールとして使いたくない。気を付けなくちゃならない。作品は批評の道具や、おもちゃではないことを。SNSが、なにか批評や言説にちょうどよい道具を探しているように思えてしまうときがある。映画に限らず。そんなゲームがあってもいい。でもそんなゲームには付き合いたくない。

 

ソーラ・バーチが言うように、『ゴーストワールド』はインターネット以前、SNS以前の世界を描いている。この作品がいまでも大切な作品だと思えるのは、イーニドの持つ感受性だ。イーニドは、疎外感を感じている人が、どうやってその場をやりすごしてきたかを感知している。その場をやりすごすために隠さざるをえなかった感情に寄り添っている。確かにSNSはマイノリティ同士を引き合わせてくれたかもしれない。でも困ったことに、個人の感情としては、逆に疎外感を感じる機会が多くなってしまっている。

 

などなど。

 

今年の4月からCINEMOREさんで映画評を書いています。新作のみならず旧作について書かせていただけるので、とてもありがたく思っています。

 

『約束の宇宙(そら)』

cinemore.jp

『ビーチ・バム』

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悲しみよこんにちは

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『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』

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『1秒先の彼女』

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ゴーストワールド

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