『ミスター・ロンリー』(ハーモニー・コリン/07’米)

ハリケーンによって粉々に砕け散ってしまった身体。その破片を拾い集めるでもなく、そのまま放置された状態として散文的にドキュマンするのがハーモニー・コリンの映画だと思っている。「身体」と書いたのは、彼の映画にかなりの頻度で登場する障害を抱えた(と思われる、が定かではない)人物たち、又は役者たちに課された体の異様な酷使(『ジュリアン』の何度も繰り返される階段のほふく前進・昇降)から、この映画作家の「身体」に対する異様な執着が見て取れるからで、それが仮にヴェルナー・ヘルツォークがフリークスを描いた『小人の饗宴』や、レオス・カラックスが一連の作品でドニ・ラヴァンに課した無茶な運動を、一時的に参照していたとしても、目の前のスクリーンに映る彼らは、ほとんど神経症的な、ハーモニー・コリンの世界に住む住人としか言いようのない陰影に収まっている。また彼らの身体を引き裂いた「ハリケーン」とは何か?ということを考えることも重要だろう。『ガンモ』の時代設定はグランジ旋風が吹き荒れた原風景というか、べック・ハンセンがL・AメタルのポイズンのバンドT−シャツを着ていた頃だと推測される。ブルースの亡霊を召還し、フルクサスのジャンク精神との融合を図った(?)名曲「ルーザー」が生まれたのはこの頃だ。


8年ぶりの復帰作『ミスター・ロンリー』は「映画の古典的な手法」(本人談)を以前より若干用いつつも(ダイアログできちんと人物の切り返しを用いてたり!)、やっぱりこの路線を引き継いだ作品となっている。ほとんど宗教的に昂ぶった祈りのように思える残酷で美しいラストも健在なのが嬉しい。(『ジュリアン』の毛布にくるまっての「体内回帰」は少し紋切り感が残ったのだけど)


マイケル・ジャクソンのモノマネ芸人が老人たちにコール&レスポンスを求めるシーンに笑わされる。というか、そもそもマイケル・ジャクソン自体がものすごく悲しい人だし。物真似芸人たちが懐中電灯片手に歌いながら夜の庭園を歩くシーンはこの映画でもっとも可笑しみと悲しみを誘われたシーンだった(ネタバレだから書かないけど)。何気ないシーンだけど、並木道を歩く2人のさり気ない撮り方が好きだったな。それとカラックスは被写体としてもカッコいい。ドニ・ラヴァンチャップリンもよかった。全然最高傑作ではないと思うけど、ハーモニー君の復帰を祝いたい。


それにしても「Mr.Lonely」の歌詞ってあんなだったんだ。てっきり失恋して淋しいって曲だと思っていた。「Mr.No/body」ってことですね。


追記:『ジュリアン』の死んだ赤ちゃんを運ぶシーンはペドロ・コスタの『骨』にもあったことを思い出しました。あと湖の風景が美しくてゴダールの『リア王』を思い出した。『リア王』ほど絶望のデッドエンド感はないし、むしろこちらは幸福感もあるのだけど、どっちもカラックス出てるってだけなんですが。

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