『トムボーイ』評

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Tomboy

CINEMOREさんにセリーヌ・シアマ『トムボーイ』評、「まだ見ぬ人生への連帯」を寄稿させていただきました(告知忘れ)。奇跡的な距離感で撮られた大好きな作品です。

 

cinemore.jp

 

セリーヌ・シアマの言葉がとても興味深かったので、以下にピックアップ。

 

「フランス語でおてんば娘は「garçon manqué」、つまり「失敗した男の子」という意味です。コメントするまでもなく、それがどれほどひどいかはお分かりでしょう。だからこそ、フランス語のタイトルでも英語の単語を使ったのです。」

 

「彼ら(両親)を模範的な人物にしようとはしませんでした。私が描きたかったのは、物事がうまくいっていて、友情と優しさがあり、献身的な父親がいる家族の姿です。彼らは娘がおてんばであることを知っていて、彼女が短髪にしたり、部屋を青く塗ったり、好きな服を着たりしても、特に問題を感じていません。両親は彼女が男の子のように振舞っていることを否定しているわけではなく、ただ単に彼女が秘密を守るのが上手なので知らないだけなのです。」

 

「私は彼らにプロの俳優のように仕事をしてほしいとお願いしました。キャラクターを構築し、撮影現場で何をすべきかを正確に把握し、映画の筋書きに沿って仕事をする。それが仕事です。しかし、彼らが安心して演技できるような雰囲気を作らなければなりません。というのも、彼らの演技は本当に朗々としたものになってしまうからです。ですから、ほとんどの場合、非常に長いシーケンスを撮影することになります。カットしてはいけません。カットをしてしまうと、まるで失敗したかのようになってしまうからです。」

 

「青春とは、初めてすべてを生きるときであり、非常に強い欲望を持ち、すべてが非常に官能的なのです。」

 

「子供の頃というのは、自分で好きなことを選んだり、遊ぶことを選んだりできる時間です。人生の中で、誰もが自分ではない誰かになりきるために遊ぶ時間だと思うのです。私たちは子供の頃、毎日自分自身を作り出しています。だからこそ、この映画が本当にオープンになり、みんながつながることができるのです。」

 

以下、『燃ゆる女の肖像』でのインタビューにおける興味深い言葉。

 

「(フィメール・ゲイズ=女性の視線は存在するか?という質問に対して)女性だからそうするのではなく、判断、思考の過程で存在します。映画というものが存在している以上、男性の視線は存在しています。女性の視線は、少なくともその慣習から抜け出そうとする警戒心、意識、そして遊び心を持った試みです。だから、それは歓迎すべきことだと思います。」

 

「男性を枠外に出すということは、男性を枠内に戻して、自分を見つめ直すことになるのです。」