筒井武文『映像の発見=松本俊夫の時代』パンフレット



先週末よりイメージフォーラムで上映中の『松本俊夫 ロゴスとカオスのはざまで/映像の発見=松本俊夫の時代』のパンフレットに5作品の論考を寄稿させていただきました。素晴らしい作品はどの時代、どの年齢で見たって、その価値は普遍である。ということを大前提として言いますが、それでも『薔薇の葬列』をはじめ、松本俊夫の作品群を20歳くらいのときに体験できたことは心から幸福なことだったと思っています。松本俊夫を知らない人生なんて、ちょっと考えられないくらいに。今回原稿を書くにあたって劇映画全作品と可能な限りの実験映画を再見しましたが、20歳くらいの頃に受けた鮮烈な体験が、というより、そことの距離こそが「発見」として真新しい強度を帯びていくのが分かりました。松本俊夫の作品に触れるということは、そういうことなんだよ。常に変容と共にある。と同時に、松本俊夫の作品を語ることの難しさも痛感しながら。松本俊夫という巨大な「像」を前に、筒井監督が途方に暮れてしまった、と語る気持ちが痛いほどわかるというか。手に負えない感、凄いです(笑)。でもこういう作品群だからこそ、20歳くらいの頃に夢中になる必要があると心から思います。自分がそうであったように感じてくれたなら嬉しいです。『薔薇の葬列』で引用されるボードレールの詩を引用するなら「我、傷口にして刃 いけにえにして刑吏」。『薔薇の葬列』の中で、作品から受ける衝撃の中で、やがて歳を重ねていく過程で、それがどう変容していくかは、若い頃に体験していなければ決して分からない。余談ですが、原稿を書いている途中、東京国際映画祭で『ユリイカ』を青山真治監督と宮崎あおいトーク付きで体験できたのは、2017年最大のハイライトでした。ちょうど松本俊夫の作品に夢中になっていた頃、完璧にやられてしまった映画。宮崎あおいは涙が止まらなかったそうですが、自分も涙が止まらなかったです。何かの巡り合わせだと感じました。人生はうまくできています。




パンフレットに掲載させていただいた論考は5本。書くために仮のタイトルを作ったのですが、そこまで採用してくれてありがとうございます。


・「少年の幻視した時代」(筒井武文『映像の発見=松本俊夫の時代』論)
・「記憶/記録の増大」(松本俊夫『修羅』論)
・「モナ・リザとパンチドランク」(松本俊夫十六歳の戦争』論)
・「記録映画のエモーション」(松本俊夫西陣』論)
・「発光体としての映画」(松本俊夫『つぶれかかった右眼のために』論)


松本俊夫の作品に関しては解説を、ということでしたが、好きに書いていいとのことですべて論考のつもりで書きました。この160頁にも及ぶパンフレットはプロデューサーの羽田野直子さんのやりたい放題が結実した、わがままサイズの素晴らしいパンフレットです。こんな贅沢な試みがこの時代に出来るということは驚きでしかない。筒井監督と宇川直宏さん(宇川さんの語り、好きなんです。菊地成孔さんの語りと共に昔から大ファンです)、中原昌也さんの対談がボリュームたっぷり読めるという。それでいて、『映像の発見=松本俊夫の時代』という700分超えの作品、及び、松本俊夫の全体像をサポートする決定版、家宝版と言っていいでしょう。自分が関わっているとか関係なく、松本俊夫のファンとしてとても興奮しています。そして何より松本俊夫の作品群と『映像の発見=松本俊夫の時代』を見てほしい。偉大な才能を知ること以上に、一生に渡って関わっていく問いそのものがそこにはあるから。自分も生涯に渡って追いかけていきたいなと思いました。追いかけても追いつけない悦びというかね。思えば松本俊夫の残した作品自体が、そういった非決定性の連続で出来ているんじゃないかと思います。安心よりも絶えず揺さぶられること、心をかき乱されることを望んで選ぶすべての同志へ。選択とは強い意思のことです。


原稿を書く機会を与えてくださったことにこの場を借りてお礼させてください。ありがとうございました。




追記*『映像の発見=松本俊夫の時代』に出てくる記録映画『春を呼ぶ子ら』はホントぶっ飛びますよ。