『マイ・リトル・プリンセス』(エヴァ・イオネスコ/2011)


イザベル・ユペールドニ・ラヴァンが共演する女優エヴァ・イオネスコの自伝的な新作は、「夢より長い夢を想像せよ」と説いた偉大な母イリナ・イオネスコとの興味深い創作(写真)の共犯関係の秘密を明かす舞台裏話のみならず、永遠の鏡の国(それは悪夢だが)の主たるイリナ・イオネスコイザベル・ユペールの頻繁に行われる煌びやかな衣装チェンジが、幼い娘エヴァに当然のように受け継がれていることに気づくとき、この衣装という名の武装が、母娘の世の中に対する抵抗のためにあることを思い出させる。母娘は夢より長い夢を見るために他人とは違う煌びやかな衣装を身に纏う。室内のカメラがふいに鏡に反射する黒い衣装で着飾ったイザベル・ユペールの写真を捉えるとき、クロード・シャブロルの『ヴィオレット・ノジエール』におけるイザベル・ユペールと手を結んでしまうことは、ほとんど運命的だとすら思えてくる。この娘(エヴァ)の役名はヴィオレッタ。『マイ・リトル・プリンセス』では、かつてイザベル・ユペールが演じたヴィオレットの魂の遺伝が少女アナマリア・バルトロメイに刻まれていく。冒頭でケンケンパッをしていた無邪気な、しかしエル・ファニングのように現代的な美少女が、母に撮影の演出を受けるたびに瞬く間に古典映画から飛び出してきたようなイリナ・イオネスコ流の退廃的な少女=人形に変貌していく。このスリルがいい。



イザベル・ユペールは疼いてしまった額を指でなぞり、それが魂を外へ逃がす儀式であるかのように、半身だけ倒れこむ。イザベル・ユペールのエキセントリックでありつつ抑制の効いた演技は、その存在がほとんど歳をとった人形であるかのように冷たく、この存在はアナマリア・バルトロメイの半少女半人形の状態への危機を反射する。ユペールの映画はユペールの映画として記憶される、という鉄板の構図はここでも崩れない。そのイザベル・ユペールが娘を被写体にシャッターを切っていく度に、少女は鏡の国の住人になっていく。少女は古典映画のヴァンプ女優のポーズを熱心に研究する。イザベル・ユペールが照明を点けると、アナマリア・バルトロメイが絵画の中の少女のようにベッドに横たわっているショットは、この憑依の完了を意味しているかのようだ。すでにイザベル・ユペールの人形化が完了していることは、花に囲まれた墓の上で横たわる、というデカダンスな儀式によって明らかにされている。そしておそらく少女はこの苛烈な運命から逃れられないことを知る。世界が「エヴァ」という偶像を知ってしまったからだ。それはときに世間から犯罪のように非難された。つまり少女はさらに衣裳とメイクで化身=武装する必要を知った。この悪循環。



『マイ・リトル・プリンセス』は実作者であるエヴァ・イオネスコ(右画像)による背負ってしまった運命への治癒=開放の物語でもあるわけだけど、その重苦しさとは裏腹にときおり挿入されるソフィア・コッポラ×エル・ファニングのような開放的な少女の運動が印象的だ。TVから流れるポップミュージックに合わせて少女は踊る。「夢より長い夢」を見るために、生活の何もかもを夢(アート)にするために、武装を強制された少女。『マイ・リトル・プリンセス』はひとりの女優の対世界への肖像がここにある、ということだけを示す。それ以上に必要なことがあるとも思えない。それはヴィオレットがフィクションによって実像と虚像を無化したことを少しだけ思い出させた。


少女愛序説、人形愛序説、という澁澤龍彦的な文脈からの意見も是非聞いてみたい興味深い作品。


追記*イリナ・イオネスコはこの作品見てどう思ったのだろう?ちなみにドニ・ラヴァンは控えめな演技をしていますが印象に残ります。