『アナザー・ハッピーデイ』(サム・レヴィンソン/2011)


東京国際映画祭5日目。去年の『ウィンターズ・ボーン』(祝・今週末公開!)のような拾い物になるのではないか、という事前の予想に見事に応えてくれたのが、このサム・レヴィンソンによる処女作『アナザー・ハッピーデイ』だ。結婚式に集まる親戚一同の図、というと記憶に新しいところでは『レイチェルの結婚』(ジョナサン・デミ)を思い出さずにはいられない題材ではあるものの、『レイチェルの結婚』で”腫れ物”だったアン・ハサウェイの属性を登場人物の全員が抱えていたらどうなるか?という、まさに悲劇と喜劇が高速で行き来するような「パニック」な難題にサム・レヴィンソンは立ち向かっている。ここでは自らプロデュースと主演を務めたエレン・バーキンのトゥーマッチな演技に説得力をもたせるほどの各人の言葉と身振りのエゲツないまでの衝突によって、すべてをカウンセリングさせながら、ただひとつ包括的な治癒にだけは向かわず(「家族で前進することを諦めた」という台詞がある)、衝突のエピソードが生む、細かい機微のひとつひとつによって部分的に、刹那的に治癒されていく様が素晴らしい。ドラッグをやめられない情緒不安定の次男の言葉が胸を打つ。「9・11のときは人生で一度だけ心底家族の絆を感じたときだった。悲劇が起きなければ感じられない絆なんて皮肉だね」



『アナザー・ハッピーデイ』は完璧な映画ではない。実際、映画が始まって十数分の画面展開には疑問を持っていた。にも関わらずこれほど激しく胸を突かれたのは、エゲツない衝突のひとつひとつから次々と新たなドラマが立ち現れてくる(トラウマを想像できる)という演出の豊かさによる。たとえば次男のことを親戚一同が笑い者にするくだりが、持続する時間の中で3方向から撮られるショットの繋ぎがある。やがて吐露される次男の台詞が面白い。「親戚が集まるのなんて人生の内数回だけだ。小さい頃の恥ずかしい話ばかりじゃないか」。人生の内数回しか会わない「親族」とのブランクが、衝突によって致命的なブランクを生み、過去に生きたドラマがそこ立ち現れる。この3つのショット繋ぎに始まり、サム・レヴィンソンは残酷なくらいブランクによる見えないドラマを丁寧に掬い取る。そこにはエレン・バーキンの隠さない皺と同じくらいの、深いドラマの年輪が刻まれている。エレン・バーキンの結婚式のスピーチで、カメラがどんどん彼女に寄っていく理由がそこにはある(泣くよ!)。衝突することによってそれは画面上で力強く、刹那的に治癒されるが、ドラマ上で治癒されることはない。『アナザー・ハッピーデイ』はカウンセリング/対話の不可能性に関する映画とも言える。ゆえにエレン・バーキンの母が痴呆症の夫の話をしている途中、思わず涙をこぼしてしまったとき、「これがあなたの望みでしょ」とエレン・バーキンに向かって自嘲的に笑いかけるショットは真に迫るものがある。このとき、涙とは刹那的な治癒だからだ。懸命に説明すればするほど傷はより深くなり、新たな治癒を必要とする。それでも続いていく人生というドラマにおいて、次男のこちら側へ向ける視線を捉え続けるカメラは、終わらない治癒=対話へ向けた、ただ一つの可能性を記録しているかのようだった。素晴らしい作品。


『アナザー・ハッピーデイ』は個人的に今年の映画祭の中でもっとも忘れがたいピークとなる作品だった。『レイチェルの結婚』が好きな人には是非見てほしい。公開熱望!


追記*サム・レヴィンソンはバリー・レヴィンソンの息子さんだそうだ。いろんなエピソードが印象的で、語るとキリがないのだけど自傷行為の過去を背負った長女アリスのエピソードがアリス自身と共に美しかった。