『ある娼館の記憶』(ベルトラン・ボネロ/2011)


東京国際映画祭3日目。題材的には個人的な好みド真ん中なベルトラン・ボネロの新作は、監督本人の言う「溝口健二へのオマージュ」、という文脈で仮に(←ここ強調)語るとするならば、溝口は凄かった(ミゾグチが足んねーよ)、で個人的には終わってしまう。フィルムがその特別な固有名詞を誘発させる、というよりは、むしろ積極的にそこに飛び込んでいるボネロの新作は、いつの時代に作られた作品なのかを特定させない、慎ましやかなファーストショットから、フィルムの質感とその題材によって、ジャック・リヴェット経由のミゾグチを想起させるが、どちらがいいとか悪いではなく、「巻き物」としてのカメラワークという一点において、アクションに興味のないボネロとの差異は明らかであり、そこにはリヴェットの逸脱があるわけでもなく、この作品は事前に聞いていた「前衛的手法」という評判とは裏腹に、むしろ丁寧に作り込まれたウェルメイドな作品に思えた。で、そここそが、というより、そこから滲み出しているものが、この作品をいいなと思える理由で、各々のアクションよりも美しい女性の絵画的配置を優先させるボネロのフェティッシュなこだわりからは、パーソナルなものさえ見えてくる。何人もの美しい女性(本当に美しい!)が息を呑むほどの艶やかな衣装を身に纏い、寝そべる、その姿勢へのモデル的なこだわり。彼女たちは美しい人形であり、人形であるがゆえに「一発で終わる」。この台詞が吐かれるシーンの、館に響き渡るような自嘲的で悲しい彼女たちの笑いには胸を打たれた。



ともすれば美しい女性の絵画的配置は映画作家の隙を与えない完全支配に繋がるものの、ボネロと出演者の間には絶妙な信頼関係=共犯関係が築けているように映る。美しい衣装を身に纏う女性、という明快にしてキラキラとした楽しさ、またはデカダンスに思いっきり耽る楽しさ、が画面からエロティックなパッションとして伝わってくるからだろうか。この作品では9割方が室内で撮られているにも関わらず、また、ある意味幽閉されているにも関わらず、女性たちは情熱的な視線で輝いている。悲しいくらい情熱的な彼女たちの崩壊が、オペラ的に展開されるラストは、それが壮大なオペラであるが故に、あの賛否両論(否のが多いかもしれない)のショットも許されるのではないだろうか。このとき初めて縦軸に動くカメラは、最後のブルジョア文化が俗に転じていく落下と浸透の速度そのものをとらえているかのようだ。「もはや愛は道端で買える時代になってしまった」。題材的な好みも大きいのだけど嫌いにはなれない作品だった。