『悪意の眼』(クロード・シャブロル/1962)


横浜日仏学院にてクロード・シャブロル『悪意の眼』を再見、というか日本語字幕付きは初見。『クロード・シャブロルとの対話 不完全さの醍醐味』や、クロード・シャブロルの作品についていろいろと思考した後に体験する『悪意の眼』には、いろいろな発見があった。たとえば、泳げない主人公の乗ったボートを水面ギリギリからロングで捉えた、あの不安定な美しさを放つ図と、ここで展開される悪意のない無邪気なエピソードは、『気のいい女たち』で執拗なくらい何度もプールに沈められた女の子の逆ヴァージョンとして、冷徹なくらいあっさりと披露されることや、『悪意の眼』の全編に通底する、『いとこ同志』から引き継いだような集団の中の疎外感。また、これと繋がるところでは、ジーン・セバーグが出演するレジスタンス映画の傑作『境界線』以前に、ドイツ人とフランス人が出てくる題材をシャブロルが取り扱っていたこと。最後に、これが一番痛感したことなのだけど、主人公がステファーヌ・オードランのスキャンダラスな写真を彼女の夫に見せるとき、ブローアップされた写真は一枚一枚どんどんズームになっていくわけだけど、妻の裏切りを知った傷心の夫は、どうゆうわけか、丁寧にその写真を元の順序に戻していく。つまり、一度ズーム・インされたカメラがトラック・バックしていくわけだ。ここに、『不完全さの醍醐味』の中で語られた、『不貞の女』のズーム・インと後退撮影(トラックバック)の関係を思い起こさずにはいられない。「ズーム・インの終わりが先でトラック・バックが続けば、この映画の結末は不幸となる。別離の絶望が和解をしのぐからだ。反対にトラック・バックの終わりが先でズーム・インが続けば幸福となる。彼は彼女のもとにとどまるだろう」。『悪意の眼』の結末がどちらだったかを考えるとき、この言葉はスクリーンと、それに対峙する人の心の奥底に、エコーのような響きを放つ。


上映後の大寺眞輔氏と柳下毅一郎氏のトークはとても面白かった。柳下氏の「シャブロルは犯罪にもサスペンスにも興味がないのでは?」という提議が面白かった。シャブロルは犯罪そのものよりも、犯罪を犯した人の方に興味がある。おそらくミステリの謎解きにも興味がない(『肉屋』の犯人はそりゃ肉屋ですよ、には笑った)。たとえば『沈黙の女 ローフィールド館の惨劇』は、サンドリーヌ・ボネールの文盲は、原作ではサプライズな描かれ方なのだけど、シャブロルは謎解きとしては見せていない。


トークが「ブルジョア/階級」に及んだとき、シャブロルにとっての「階級」とは「社交」のことなんだと指摘する大寺氏の発言が興味深かった。同時にシャブロルにとっての「社交」とは「ゲーム」のことなんだと。『悪意の眼』のチェスのシーン(長回し)に代表されるように、部外者としての疎外感は、社交=ゲームによって乗り越えられる。または『悪意の眼』における三人がそれぞれ異なることを思い出して笑う、あの異様なシーンのズレた笑い。ここで柳下氏がシャブロルの食事シーンを絶賛するのが興味深かった。食事のシーンには何も起こらない。そこにはブルジョアの虚しい言葉だけがある。


両氏共に晩年のシャブロルがヤバイ、ということで一致していた。ひとつのシーンの中に、手前と奥だけではなく、その中間でいろんなことが起きている。だからシャブロルの映画は疲れる。1日2本までが限界、と。悲喜劇を混濁したまま放つ(それこそ『悪意の眼』の台詞「僕にとっては同じこと」直訳で「すべて同じこと」)としてのシャブロル。入門編としても応用編としても、非常に聴き応えのあるトークだった。


個人的にはパンニング撮影の推移が気になるかな。初期〜中期の、ときに語りと無関係なパンニング撮影が、後期になるにつれて、パンニングによる語りの効率性が重視され、無駄がなくなっていく、とは柳下氏の指摘で、まったくその通りだと頷くばかりだった。ただ、後期シャブロルのパンニング撮影には、語りの効率性以外に、それこそ両氏が指摘するように、手前と奥だけでなく、その中間でいろんなことが起きているように思えてならないんだよね。たとえば『悪の華』冒頭のダミアのシャンソンが響く無人の家もそうなんだけど。だから晩年のシャブロル、そして『刑事ベラミー』はとにかくヤバイ!、という意見は、シャブロルの画面が持つ「中間の事件」を経て経て経たあとの結論なわけで、激しく頷かされた。


追記*横浜日仏学院の9月、10月、11月のプログラムが凄すぎる件。『ハンズ・アップ』(ロマン・グーピル)、『誰でもかまわない』(ジャック・ドワイヨン)、『クスクス粒の秘密』(アブデラティフ・ケシュッシュ)と続きます。以下、『ハンズ・アップ』過去記事。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20101025