『SOMEWHERE』(ソフィア・コッポラ/2010)


桜木町ブルグにてソフィア・コッポラの最新作。ソフィア・コッポラは処女作から一貫して「引きこもり」の主題を描いてきたわけだけど、今回少しだけいつもと違うなという予感がしたのは開巻早々のストリップでFoo Fightersが流れたときだった。サントラも含め「私の好きなもの」を集める傾向にあったソフィアが、どこかポップミュージックと距離をとっているように感じたからだ。だってエイメリーグウェン・ステファニーなんてわりと最近のヒット曲じゃないか。それって現在のモードでないばかりか、そもそもスノッブなのかさえ疑問が残る(楽曲をバカしているのではありません。ソフィアのいままでの趣向と違うということです)。『マリー・アントワネット』でNWだぜ、どーよ!って感じのソフィアとは明らかに違う。いやだからこそ、大衆的なヒット曲の臆面もない並置にはポップアートのセンスを感じたわけ。もっとも肝心なところはソフィアの大好きなフェニックス(旦那のバンド)で固めてるわけだけど。傑作『ローラーガールズ・ダイアリー』でドリュー・バリモアが間違いなく本人大好きで挿入したポップミュージックの羅列とも異なる。ソフィアは対象に対して距離をとりはじめているのかもしれない。



ソフィアとは初めて組むことになった名手ハリス・サヴィデスのカメラは、ホテルの廊下の奥から歩いてくる人物を焦点距離の操作によって歪ませる。「引きこもり」が強調されるのは今回も変わっていない。さて問題はその「引きこもり」がどうやって外部と触れ崩壊していくかだ。依然として引きこもった女の子のアップを撮らせたらソフィアは超一流だ。それは写真的な一コマをとらえる巧さかもしれない。ソフィアの視線が描写する少女エル・ファニングは本当に美しい。娘のエル・ファニングが父親(スティーヴン・ドーフ)とゲームに興じるシーンのすべてが輝いている。このときのカメラの「揺れ」は『マリー・アントワネット』における楽園の風景にもあった。同じように父と娘の二人でいるときの時間は楽園そのものだ。完全に外部から遮断されている。スティーヴン・ドーフが本業である「俳優」を演じるシーンが周到に避けられていることに注目したい。娘の前で父は「仕事」をしない。一人のときの楽園と娘といるときの楽園がまず別物としてあり、だからこそ一人でいるときのパーティーが「仕事」として公の場で再現されるとき、このときの娘との視線の交換にだけエモーションは宿るだろう。本作において娘が父の楽園を知っているかどうかは心理さえ描かれない。ところがこの少女の表象されない悲しみは、父親との外部と遮断された楽園によって、少女のその可憐さそのものによって私たちは「読む」ことができる。


楽園のポップアート的羅列が差異を生む。もし楽園のある場所をSOMEWHEREとするならば、本作においてSOMEWHEREとは文字通り何処かであり、同時に何処かということは何処でもいい、または此処でも何処でも同じ(ポップアート的な等価)ということだ。『ブラウンバニー』(ヴィンセント・ギャロ)を想起せずにはいられない冒頭のモーター音と、この冒頭に呼応するラストシーンにおいて、いよいよソフィアは本格的な外部への旅立ちを準備するのかもしれない。そのことに勝手な期待をしている。


追記*最高キュートなエル・ファニングには個人的にジャック・ドワイヨン『家族生活』の美少女マラ・ゴエちゃんを思い出していた。『あばずれ女』のあの美少女でもいいけどね。