廣瀬純×菊地成孔@映画美学校 〜その二〜


(前回のつづき)
ヒッチコック『鳥』について。シネキャピタル語録としては「万国の鳥たちよ、団結せよ。失うものは羽しかない」は「万国の労働者よ、団結せよ。失うものは鉄鎖しかない」の言葉の組み替えなわけだけど、これはヒッチコック×トリュフォーの対談の中で、ヒッチコックが語るところの「普通の鳥だから撮った」という発言に基いているという話。鷲でも鷹でもない何処にでもいる普通の鳥を主役に置くこと。普通の鳥=イメージを別のイメージと組み合わせることで特別な価値を生む、というモンタージュの機能の再確認。万国の鳥=万国の労働者による蜂起。『鳥』のなかで、360度ガラス張りの電話ボックスに残された人間に鳥が攻撃するシーンは、まさにこの「万国(の鳥)」を非常に巧みな方法で表している。それはまるで360度スクリーンのようなのだ(!)。


ここで鳥(廣瀬氏の言葉だとすずめのピータロー又はピーター)の気持ちになって考えてみようと廣瀬氏は提起する。なんとなくヒッチコックさんの映画のオーディションを受けたら、鷲でも鷹でもない普通の僕が受かっちゃって、どんなカッコいい演技してやろうかなと、気合を入れて現場に行ったら、監督は「いつもどおり普通にやってくれ」と言う。数年後、映画に出たことも忘れて偶然街で会った友達に「映画見たぞ。お前、すげえな!」と言われる。ピータローは「えっ?普段の僕なんだけど」と驚く。確かめに映画を見に行ったピータローは更に驚く。俺、もしかしてイケテル?そこにはピータローの知らない側面が映っていた(イメージ×イメージ=特別なイメージ)。ピータローはふと思う。こんないい演技してるのにギャラ3ユーロって何だよ?5ユーロはくれてもいいんじゃない?残りの2ユーロはヒッチコックさんに持ってかれた(=搾取)のかな?ヒドイやつだな。でもなんか映画の僕、カッコよくて嬉しいな。


大学の講義で一生懸命生徒に伝えようと熱い講義をしようと、50年間同じノートを抑揚なくダラダラ読む講義だろうと貰えるギャラは一緒だ、ということから廣瀬氏はこの着想を得たらしい。鳥の労働力と搾取の問題。ピータローはイメージを働かせ(モンタージュされ)剰余価値で満たされると同時に、ピータローはイメージを搾取された。搾取されたにも関わらずどこか嬉しい。しかしヒッチコックが聡明なのは、「失うものは羽しかない」の部分を描いていること。モンタージュによって鳥をローストチキン(=羽のない鳥=無個性化)にしてしまっていること。鳥の特別な価値を生むと同時に、特別な価値を奪っているというところ。それは音響面にも表れていて、鳥の声はアナログシンセによって種別性を奪われ「新たな声」にされている。またヒッチコックがボツにしたアイディアとしてボス鳥の存在が挙げられる。もしこの映画にレーニンのようなボス鳥がいたらまた変わっていっただろう、という話。


「トランシーバーと双眼鏡を持った1万人の子供たち」は、イメージによって剰余価値を得たけれど、嬉しい反面、もっと普通の子供として映りたかったのではないか?という問いが提起される。映像には常に搾取が付きまとう。


ここから「シネキャピタル以前」へと話は及ぶ。山中貞雄の話。1930年代の日本映画にあって山中貞雄は既にイメージ×イメージの過程と闘かっていたと。デビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差』(1932。フィルム全篇は現存せず)における当時の大スター嵐寛寿郎が「カメラに背中を付けてください」と言われて怒ったエピソードが紹介される。大スターの顔ではなく背中を撮る。「山中にとって映画とは顔を撮るものではなく背中を撮るものだった。」これはスターの顔というスペクタクルの社会からの解放を意味するのではないか?


また『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935)における「壷」のシネキャピタル的3重の現実。山中貞雄のイメージとの闘い。


・その1 「壷」は城の外では単なる「壷」である。お金と出会うことによって商品化される。
・その2 「壷」は人間の背中と並ぶことで「韻」を踏む。等価のイメージ。
・その3 山中と「壷」の問題。「壷」の主役化。剰余価値の発生。「壷」を働かせまくる。


さて同じことが当時の世界映画のなかでも起こってはいないだろうか?たとえば映画における「風」の描き方。ヴィクトル・シェストレムの『風』(1928)では風はブイブイ吹いてるが、30年代に入りジョン・フォードジャン・ヴィゴの映画における「風」はそよ風になっている。ここにはスペクタクルに対する問いがあるのではないか。風の労働力、剰余価値の問題。


面白いのはシネフィルとして育ち、戦場で体験した現実を映画に持ち帰ることが叶わなかった、「映画しか知らない山中」(当時の批評における伊藤大輔との比較で伊藤が人間を描くのに対して、山中は「映画の美」に向かっていると評された)がこれを発見した、ということだ。


そして「シネキャピタル以後」〜ゴダール
(つづく)