『ホワイト・マテリアル』(クレール・ドゥニ/2009)


日仏学院カイエ・デュ・シネマ週間」にて待ちに待ったクレール・ドゥニの最新作。イザベル・ユペールの提案によって実現したこの初コラボは、処女作『ショコラ』以降再びアフリカ大陸で撮影されている。一国の内戦と其処に留まることを決断したヒロイン=ユペールを描いているにも関わらず、本作の舞台となった国については周到なまでに最後まで明かされることはない。舞台が何処でもないコスモポリックな国における紛争であることは、アフリカ大陸であるにも関わらずレゲエ・ミュージックがラジオから流れる、という点からも明確だろう。着想はルワンダにあったかもしれないが、ここはルワンダではない。ラジオから流れるレベル(反抗)・ミュージックはレゲエ特有の大らかなリズムを刻みながら「拘束せよ」ではなく「逃げろ」と歌う。アフリカ大陸に降りた余所者としてのドゥニが、余所者のままコスモポリックな紛争を描く。コスモポリックな紛争でありながら、この映画は強烈な血の香りで溢れている。これまでのドゥニの作品同様、いやそれ以上に、ここにはただならぬ暴力の気配、というより画面のコアに触れるような血気が充満している。この気配を支配しているのが画面に響き渡る残響だ。負傷した英雄イザック・ド・バンコレが死に絶えながら見つめ続ける蜃気楼のような視界と合致するかのように残響が画面を支配する。『ホワイト・マテリアル』がラストシーンから始まっていることが興味深い。この映画全体が強烈なフラッシュバック/残響体験であるかのようなのだ。



この国からの逃亡を拒否するイザベル・ユペールのブロンドの髪が、ヘリコプターが巻き起こす大砂塵に塗れる。バイクに跨り両手を離すユペールの自由(『汚れた血』のジュリエット・ビノシュジュリー・デルピーを重ね合わせたようなイメージだ)。風になびくブロンドの髪がフラッシュバックを用意する。暗い森の奥からゾロゾロと出てくる子供兵士の銃とサーベルが鈍い輝きを放ち、そこに馬がモンタージュされるとき、震撼が走る。大傑作『侵入者』でベアトリス・ダルが恐ろしいほどの笑いと共に駆け抜けたあの馬を思い出す。英雄(亡霊)は馬に乗っている!その上で本作のイザベル・ユペールが荒野に放たれたヒロインであることを興味深く思う。ユペールの息子が荒野に放たれたとき、映画は激動(暴動)のときを迎える。


ニコラ・デュヴォシェル(息子。美青年!)に放たれようとした子供兵士の矢こそがすべての伏線だった。おそらく彼の心臓を狙っていた矢は、搾取/被搾取の構造/パズルを破壊するウィルス、伝染の矢だったのだろう。黒人の肌と白人の肌のキメだけが加速度を増してフィルムに際立っていく。やがて息子が体験することになる背筋の震えるような恐ろしい体験、その直後のユペールを前にした少年のような微笑み。『ホワイト・マテリアル』が母の映画であること、そして一人の女の映画であることが、「変身」によって浮き彫りにされる。青年の衝撃的な「変身」についてはここでは多くに触れまい。ただ青年のブロンドの髪が奪われたことについては触れておきたい。それこそが究極の手放すことができない”ホワイト・マテリアル”だからだ。ただその”ホワイト・マテリアル”が興味深く、事を複雑にするのは、「変身」の原始的な発明が黒人の側から生まれたことによる、ということだろう。ユペール=母の「変身」はペディキュアを塗ること、リップスティックを塗ることによって、闘争的に訪れる。そして言うまでもなく、化粧とはアフリカの原始的な儀式と相似の関係、歴史の関係を結んでいる。


コーヒー豆を栽培するユペールの家から盗まれたドレスやアクセサリーが黒人の美しい少女(武器を持っている)の肌を飾るとき、ユペールは何も語らず、泣きながら「疲れたの…」とだけ言い、黒人女性からの慰めの抱擁を受け入れる。すべてが焼き払われよう廃屋のなかで、ユペールがつけた決着に驚嘆する。荒野に放たれた”ホワイト・マテリアル”の行方のなさに身は震え、やがて目は冴え渡るだろう。『ホワイト・マテリアル』とは強大なフラッシュバックによる覚醒の映画だ。大傑作!


『ホワイト・マテリアル』の次回上映は今週金曜日。アルノー&ジャン=マリー・ラリュー『世界の最後の日々』との上映。なんとも素晴らしい組み合わせ。以下、カイエ週間。
http://www.institut.jp/ja/evenements/10213


以下、『世界の最後の日々』について以前書いた拙文。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20100718