『Le voyage aux Pyrénées』(アルノー&ジャン=マリー・ラリュー/2008)


輸入DVDでアルノー&ジャン=マリー・ラリューによる旧作(『ピレネーへの旅』)。先日当ブログで紹介した快作にして傑作『世界最後の日々』(今秋日仏学院にて上映決定)の胎芽は既に本作にあった。と同時に『ピレネーへの旅』はサビーヌ・アゼマとジャン=ピエール・ダルッサンの芸達者2人によるアラン・レネ『スモーキング/ノー・スモーキング』の「続編」とも受け取れる内容だ。『スモーキング/ノー・スモーキング』のメルヘンチックなセット撮影から意を決して実際のロケに飛び出したのが本作といえる。というのも映画の大半に渡って役者二人による「芸」の妙技が披露され、「演技という芸能」自体が本作の主題として昇華されるからだ(それはとても美しい)。映画の終盤、腹話術で話す主役二人の「男役/女役」の入れ替わり演技に脱帽する。また、女性の全裸であるにも関わらず、『世界最後の日々』で全裸で走ったマチュー・アマルリックと相似の笑いを誘うサビーヌ・アゼマと、彼女を捉えたロングショットに唸らされる。美しい女性が脱いでも決して「笑い」にはならない、という”定説”が痛快なまでに覆される。



ブルガリアンベアーと決戦する丘の上の離れ家屋での一部始終が出色だ。というかあまりにもキュートすぎて笑える。凶暴な熊にまるでトーチカの窓枠越しから覗き見るように恐る恐る視線をやるサビーヌ・アゼマは、熊が山の景色をバックにタバコを吸って休憩する姿を目撃する。ここで熊さんのあまりのキュートさに爆笑すると共に重要なのは、熊が入れ替わり可能な「容れもの」であることだろう。『ピレネーへの旅』において人種や宗教や人間⇔動物はすべて置換可能な「容れもの」だ。この「入れ替わり」のテーマが映画を最後までグイグイと引っ張り、それが最後の最後で「演技=芸能」に昇華される。この「演技=芸能」を対社会性、または対社会性という名のフィクションと捉え、演者二人がここからドロップ・アウトすると仮定/解釈すると、私がこの作品から受け取った懐の深さが伝わってくれるだろうか。ここに『世界最後の日々』と同種の「(この世からの)逃走/闘争」というテーマが重なる。


複数の映像に複数の音楽を被せた実験を試みたミシェル・シオンの言うように、映像と音楽の関係性とは、すべてがマリアージュしてしまうという意味で、置換可能なものだ。アルノー&ジャン=マリー・ラリューの作品における音楽の使い方は、それを逆手に取った方法論なのだろう。どんな音楽も映像に合ってしまうことを快楽的に悪戯っ子のように実験している。何処からともなく聞こえるボサノヴァのギターの音色と共に岩場に水が湧き、河が生まれ、宗教服を着た3人の男性が何かの啓示を受けたかのように全裸になって水遊びを繰り広げるシーンの妙。『世界最後の日々』の革命のような合唱歌にもそれは引き継がれている。やはりこの兄弟は映画の見取図において「置換」ということを大きなテーマ、そして最大の武器にしているようだ。


ジャン=ピエール・ダルッサンはサビーヌ・アゼマの声でこう言い放つ。


「僕たちはただの役者なのさ」


傑作!


追記*『世界最後の日々』の過去記事はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20100718