『アウト・オブ・ブルー』(デニス・ホッパー/1980)

アウト・オブ・ブルー デラックス版 [DVD]

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前もって予告されていたデニス・ホッパーの死には、荒野に吹く最後の風のような寂しさと、祈りのような安らぎが同居した、不思議な感覚を覚えている。世代的にリアルタイムで触れられなかった60〜70年代の伝説的な出演作(『イージー・ライダー』や『地獄の黙示録』)は元より、80年代の復活劇にも間に合っていない。リアルタイムでデニス・ホッパーを本気で意識し始めたのは『イージー・ライダー』より後に見た『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット)だった。やがて映画作家としてのデニス・ホッパーのとてつもなさに心酔することになるわけだけど。


フィルムで体験したことがないにも関わらず『ラストムービー』(1970)はオールタイムベストに入る。そしてあの超越的な『ラストムービー』と同じくらい好きなのが、この『アウト・オブ・ブルー』だ。今回追悼の思いでホッパーの監督作品群を改めて再見してみたのだけど、ロケーションの特異なレイアウト=アメリカの風景、絵画の迷宮に入り込んだかのような撮影・編集といい、本当に稀少な映画作家だったことが惜しまれる。


『アウト・オブ・ブルー』はハリウッドを追放されたデニス・ホッパーの監督復帰作。にも関わらず、実のところ全く懲りてないところが本当に凶暴で愛らしい。と同時にパンク少女を描いた相当にロックンロールな作品でもある。ドラムスティックを持ち歩くパンクス少女は突如パンクのライブに飛び入り参加、デタラメな演奏を始めたりする。



『アウト・オブ・ブルー』は『ブラックマシーン・ミュージック』(野田努著)のようにディスコのレコードを燃やすシーンから始まる(ウソです。でもそんなイメージ。反体制、反ディスコが劇中で叫ばれる)。パンク対ディスコの構図。レベルミュージックとしてのパンクのコドモと元祖パンクの父親=ホッパーとの対立。パンクに否定されたディスコやサルソウルが、アンダーグラウンドへと派生したのがゲイ・ミュージック=レベルミュージックとしてのハウスであるとか、HIPHOPコミューンの発生という話は、無関係の話ではない。ホッパーは次々作『カラーズ』でグラフィティ・アートの街を舞台にしているのだから。レベル(反抗)という強固な意志。


パンクバンドに心酔する少女の着るジャケットの背中には何故か”ELVIS”のプリントがされている。「エルヴィスこそが元祖パンクだ」というタクシー運転手の台詞が面白い。パンクという現象が、”ロックンロール・リヴァイバル”であったことを思い出す。またカート・コバーンの遺書としても有名な言葉「消えて行くより燃え尽きる方がいい」(二ール・ヤング)の引用。この言葉はデニス・ホッパーの監督作品を貫いているように思う。『ラストムービー』や『アウト・オブ・ブルー』の燃え上がる炎。『バックトラック』の中年が鳴らすサキソフォン。『イージー・ライダー』、『カラーズ』の空撮で捉えられた絶死。夢遊病的な主人公の徒歩移動を捉えた撮影。それらは通り過ぎるアメリカの風景として説話の外に因果/陰画として映し出される。それらはただ通り過ぎていく。過去と現在は語らずとも常に此処にある。そこが抜群に面白い。


『アウト・オブ・ブルー』の中でホッパー=父は酒を喰らっては意味不明な言葉をワメキ散らす。すぐ隣の部屋で母はホッパーの友人を情事に誘う。少女は部屋で安全ピンを刺す。荒んだ終末へ向かうこの並行モンタージュが空恐ろしいほど見事だ。『ラストムービー』で吐き捨てられた台詞、「神は何処にいる?」を思い出すラストの展開。


撮影済みの遺作が堂々主役を張ったその名も『The Last Film Festival』というのが興味深い。さて、2008年にシネマテーク・フランセーズで大規模なデニス・ホッパー・レトロスペクティブが開かれたことは記憶に新しい。とはいえここ日本で映画作家としてのデニス・ホッパーの偉業はまだまだ言及が足りてないように思う。ホッパーは2000年に『Homeless』という短編を撮っている。これは『ラストムービー』を回顧する際、併映され好評を得ている。映画作家デニス・ホッパー特集上映を切望する。本当の意味での追悼はそこから始まるはず。