『六つの心』(アラン・レネ/2006)


日仏学院アラン・レネ全作上映」で『彫刻もまた死す』をはじめ短編5本と待望の『六つの心』。あの人を喰った快作『風にそよぐ草』に至った道程を理解するために『六つの心』を既に体験済みの方にも再度体験してほしい。個人的にも2010年をアラン・レネ元年としたい気持ちに駆られている。徹底した形式主義者として知られるアラン・レネの現在が放散する輝き。たとえば『風にそよぐ草』と『六つの心』を通過したあなたが目撃する『去年マリエンバードで』や『ヒロシマ・モナムール』は全く違う景色に映るかもしれない。作品への評価は個別ではなく作家の生涯を通して考察されることも重要だろう。


結論から言えば『六つの心』は紛れもない傑作である。いつまでも降りやみそうもない雪、サビーヌ・アゼマはじめ役者陣の肩にさえ積もってしまう雪。『風にそよぐ草』の盗まれたバッグのようにファンタジックですらあるこの「雪」に、先日のデプレシャンの言葉を思い出さずにはいられない。「映画では雪を降らせるだけで魔法がかかるんだ」。『六つの心』はレネと”ソウルブラザー”の契りを交わしたデプレシャンの撮る映画と、最も分かりやすく共振しているように思える。



デプレシャンの言う”映画における「雪」の奇跡”を反転させたところに『六つの心』の独創性はある。『六つの心』において「雪」は開巻早々から当然の顔をして起きている奇跡である。シーンとシーンは雪によるオーバーラップで繋がれる。時折、被写界深度を利用した人物の輪郭線の移動が行なわれたり、装置自体が前面に出る画面の様相はファンタジックでありクラシカルな趣きすら感じさせる。「映画の奇跡」は予め前面に表出されている。ここで問題の焦点は「いかにして雪を降らすのか?」ではなく、「いかにして雪を降りやますのか?」になってくるだろう。本来バラバラな個人であるはずの登場人物は、雪による魔法=奇跡の如く関係を広げるや、ウソのような相関図が出来上がる。信仰心の厚いサビーヌ・アゼマ言うとろの「赦し」を得るための「試練」で繋がった相関図は、個人個人の難儀とは裏腹に魔法=雪によって繋ぎとめられる/守られる(とはいえ、サビーヌ・アゼマがアンドレ・デュソリエをはじめとする男性群に罪の意識なく「試練」を与えてしまう存在、というところが本当に楽しい。笑える)。


サビーヌ・アゼマがピエール・アルディティに手を添えた瞬間に起こる世にも美しい奇跡には、アゼマの「地獄は自分の内側にある」という言葉が添えられる。この美しき崩壊によって「赦し」と「試練」は融解霧消する。ここでの照明が舞台における独白のような、アゼマという「神」への告解のような趣きなのが面白い。「赦し」を経て「試練」を失った男性群がどうなるか。雪の降り止む瞬間を見逃さないでほしい。『六つの心』は(映画の)魔法を解いてしまうことの悲喜劇を大らかな魂で謳っている。


追記*デュソリエの妹イザベル・カレが「悪魔の尻尾」というカクテルを注文するところがバカバカしくも興味深い。サビーヌ・アゼマを筆頭とする役者陣、撮影のエリック・ゴーティエとの蜜月といい、現在のアラン・レネ組の充実が恐ろしい。


追記2*ここから『風にそよぐ草』という大ジャンプ(ダイブ?)に改めて敬服。そしてその胎芽が確実に揃っていたことのオドロキとヨロコビよ!