『ハデウェイヒ』(ブリュノ・デュモン/2009)


ブリュノ・デュモン初体験。カイエ紙の2009年度ベストにも入ってた『ハデウェイヒ』は物語構造の上での「揺らぎ」と少女の顔を捉えるカメラの「揺らぎ」が絶妙な形で実現している。信仰心の厚さが、キリスト自身からの肉体的・精神的な愛を求めてしまうこの少女は、キリスト教イスラム教の間で、キリスト教の内部、自己の信仰の内部で絶えず揺らいでいる。『ハデウェイヒ』は信仰の外部と内部における性愛と戦争、救済の物語だろう。見終わった後の率直な感想としては、実に味わい深いフィルム。だけど短すぎる。真面目すぎる。と思ったものの、図式の極端な単純化がこの印象を与えていることも事実。とはいえこの図式の中に、例えばイスラム教信者がキリストへの絶対の愛を語る少女に「素晴らしい」という台詞があったりすることが、両者の住み分け図をよりシンプルな形で一本の串で貫いているように思う。少女は絶えず揺らぎ続ける。


少女の揺らぎをフレーム外から掛かるの声のリアクションとして記録しているところにデュモンのしたたかな戦略がある。基本的に少女は多くを語らない。その言葉はたどたどしく断片で紡がれる。ひとつひとつの言葉の断片の間に沈黙する「時間」こそがデュモンの示す映画の「存在」なのだろう。少女の目の動き、頬の筋肉は絶えず怯えている。それはたとえばタル・ベーラにおける「顔」の超然性とは対照的な肉感的な「揺らぎ」であり、この「揺らぎ」が物語構造の「揺らぎ」と共振する。「処女のままでいたい」と恋人に言い放つ少女が、一度だけ少年の体を求めているかのような至近距離に近づき、少年の腕に指を当てたりするシーンがスリリングだ。また「洗礼」は映画のなかで幾度も訪れる。たとえば少年グループにナンパされ連れて行かれた素晴らしいライブシーンの翌朝、少女は教会の演奏を聴く。身を清めることであると同時に、少女の振れ幅豊かな「揺らぎ」への対比を表象しているかのようだ。「愛を求めているのか?」と少年と抱擁するシーンが反復する形のラストで、少女ではなく少女を助けた男の虚ろな顔のアップになるところに、この「揺らぎ」の物語の完結に果てがないことを知る。非常に面白かった。ブリュノ・デュモンの過去作も見てみよう。


追記*とはいえ上映後の監督ティーチインで「洗礼」という解釈は全否定されていた(笑)。えっ、そんなに多様に解釈できるツクリかなぁ?という思いはある。とはいえ解釈云々より、まず面白い映画ですよ、『ハデウェイヒ』は。