二階堂ふみ論「君、かなた」

リアルサウンド二階堂ふみ論「君、かなた」がアップされました。

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二階堂ふみさんは、まだフォロワー数がいまの1/10以下だった頃からフォローをいただいていて、いつか何かしらの形で恩返しをしたいと強く思っていました(ふみちゃんはツイッター辞めちゃったけど)。これが恩返しになっているかどうかは分かりませんが、今回、念願の!ということで。とても嬉しいです。

 

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思い出すのは、『私の男』が公開された年。多摩映画祭で二階堂ふみ特集が開催され、二階堂さんの舞台挨拶がありました。舞台上での二階堂さんは、言葉の選び方が素敵な方だなと思ったのですが、そのときの感想ツイートを一番にいいねしてくれたのが、二階堂さんでした。二階堂さんの影響は絶大で、普段通りにツイートしていたら絶対に届かないであろうところにまで波及していくのを、当時感じていました。とてもありがたいことだと今でも思っています。

 

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『エール』は、二階堂ふみ論を書くに当たってオンデマンドで一気に見たのですが、これは本当に見てよかった。作品自体も大変素晴らしいのですが(このコロナ禍の時代にも合っている)、二階堂さんの演技がとんでもない領域に達した記念碑的作品だと思います。拙論でも触れたように、二階堂さんの代表作は『私の男』と『ふきげんな過去』だと思っていたのですが、『エール』の二階堂さんは、それを遥かに越えていきますね。というより、各年代で出会うべくして出会った作品が代表作になっていくのだとも思います。作品はそのときの記録なので。その意味で、『私の男』の厳しい雪原風景に響く「遠き山に日は落ちて」のチャイムは、あのときの二階堂さんと分かちがたく結ばれていて、この曲をどこかで耳にするとき、あの風景とあの少女を必ず思い出すのだと強く感じています。分かちがたさ。『エール』の古山音こと、二階堂ふみさんは、記録としての分かちがたさを表していました。今後のご活躍を楽しみにしています。

 

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リアルサウンドでは、「女優=作家論」のコンセプトで現在6回ほど書かせていただいております。今後ともよろしくお願いします。

『On The Rocks』(Sofia Coppola/2020)

*[映画]『オン・ザ・ロック』(ソフィア・コッポラ/2020)

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あまりにも簡単に恋に落ちてしまう

あまりにもすぐ、恋に落ちてしまう

 

もっと学ぶべきかもしれない

痛い目にだってあっているのだから

それでもあまりにも簡単に恋に落ちてしまう

あまりにもすぐ、恋に落ちてしまう

"I fall in love too easily"

 

ソフィア・コッポラの新作『オン・ザ・ロック』にひどく感傷的になるほどの感銘を受けている。冒頭に流れるチェット・ベイカーのシルキーな手触りの歌声(「I fall in love too easily」)が、ゆっくりと肌に浸透していくように、『オン・ザ・ロック』が描く感情の色模様は、肌に感傷の味わいを浸透させる。これまでのソフィア・コッポラの決して簡単ではなかった映画作家としての道のりが大きく作品に影響を与えている。

 

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On The Rocks

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Somewhere

 

【等身大の映画は可能か?】

 

ヴァージン・スーサイズ』という少女映画の金字塔を撮って以降のソフィア・コッポラは、自分が一番得意とする手法を、以後の作品内で応用することや、敢えて封印することにかなり意識的な注意を払ってきた。ソフィア・コッポラの得意な手法とは言うまでもなく、十代の少女をファッションスナップ的に、且つ、プライベートフィルムの手触りで親密に捉えることだ。十代の女の子を撮らせたらソフィア・コッポラの右に出る者はいない。そうとまで思わせるほどに、『ヴァージン・スーサイズ』の少女たちは、脆く、そして大胆だった。不安であることと大胆であることが決して矛盾しないことを、ソフィア・コッポラは初めから知っていた。それらは、スパイク・ジョーンズクロエ・セヴィニーと共闘したX-Girlの仕事の中で、まだ十代だったクロエ・セヴィニーが放っていた大胆不敵でありながら不安神経症的な少女性(リタ・アッカーマン的)の発展形とも思えた。この手法は、『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソン、『マリー・アントワネット』のキルスティン・ダンストに援用され、『Somewhere』のエル・ファニングで一度極めることになる。続く『ブリングリング』から、ソフィア・コッポラの十代少女へのまなざしは大きな変化を見せる。同時期に撮られたフェニックスのPV(バンドの演奏に泣く少女のリアクションだけをひたすら捉えた傑作PV「Chloroform」)にもっとも分かりやすい形で表象されているが、これまでになかったくらいの残酷な「影」として、十代の孤独をカメラの前で突き放す方法をとっている。この影がソフィア・コッポラ自身の等身大の影に繋がっていくまでの時間に思いを馳せる。等身大の映画は可能か?そもそも、等身大の影は表象できるものなのか?ソフィア・コッポラは、自身と年齢の近いラシダ・ジョーンズにその問いを投影させる。その問いは見事な形で成功する。ソフィア・コッポラは、ビル・マーレイという俳優が特別な俳優であることを証明することで、その反射として自身の等身大の映画、等身大の影を手に入れる。

 

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On The Rocks

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Lost in Translation

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Phoenix "Chloroform"

 

【「君に認められたい」】

 

オン・ザ・ロック』は、父と娘の物語としてお父さんが大好きな娘の不安の奥を描いた『Somewhere』の変奏であり、且つ、ビル・マーレイ主演作品として恋に近づきながら決して恋ではない二人を描いた『ロスト・イン・トランスレーション』の変奏でもある。『オン・ザ・ロック』が、その表面的な軽妙さとは裏腹に、感情のレイヤーを多層的に抱えた作品足り得ているのは、ソフィア・コッポラビル・マーレイに対して一切何も変えないことで、異なる価値観との和解、共生を試みていることだろう。どこでも目立ってしまうビル・マーレイ。なぜか何をしても許されてしまうビル・マーレイ。天使としてのビル・マーレイ。そんなビル・マーレイが「女性の声が聞こえないのは許されないことだ」と娘に叱責され、その声に対して心の動きを見透かされないよう無表情でリアクションするシーン(「昔は楽しい子だったのに」)は、それが天然(=変わらない)であるように見えることも含めて、価値観の行き違いと共生のテーマを多層的に表した名シーンだ。かつてビル・マーレイは『恋はデジャブ』というタイムループ・コメディ作品の中で、女性を何度も口説き、何度も失敗した(ちなみに『オン・ザ・ロック』のハイライトの一つともいえる夜のカーチェイスシーンと同じように、『恋はデジャブ』の中にも暴走カーチェイスシーンがある!)。『オン・ザ・ロック』の父は、娘に対して恋とはまったく違う、恋になりえない、名前のない感情を持っている。それは父親が娘の結婚や交際相手にどこかで嫉妬するような、ごくごくありふれた「花嫁の父」の感情だが、一方でそれはまだ名前のない感情の淡さとして『ロスト・イン・トランスレーション』の二人の感情にも接近する。その意味で『オン・ザ・ロック』は花嫁の父の感情として、娘に気に入られたくて口説き続け、失敗を繰り返す映画でもある。『ロスト・イン・トランスレーション』の中でビル・マーレイスカーレット・ヨハンソンに聞かせる言葉がある。「子供が生まれたときは怖かった。慣れ親しんだ生活とはこれでさよならだ。でも子供が歩くようになって言葉を覚えると、たちまち子供が自分の世界の中心になる」。『オン・ザ・ロック』の父はいくつになってもそんな娘に認められたい。やり方は大いに間違っているかもしれないけれど、、。「君に認められたい」という一所懸命な気持ちは、何より恋愛において、そして父娘の関係においても、あまりにも尊い気持ちだ。本当は一緒にいるだけで相手を認めているのに、それに気づくことができない。二人のふく口笛はお互いを認め合う名前のない感情として町に響くだろう。ソフィア・コッポラはついに等身大の映画を継承した。おめでとう、ソフィア!心から嬉しいよ。傑作!

 

オン・ザ・ロック』、絶賛上映中!!!猛プッシュ!!!

ontherocks-movie.com